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2014年4月18日

アンのゆりかご 村岡花子の生涯(村岡恵理)


貧しい暮らしだったが、教育を受けさせたいという父の強い願いのもと花子は東洋英和女学院というミッションスクールの給費生となる。この学校で花子は英語と出会う。楽しい青春時代を送った花子だが、戦争の影がしだいに忍び寄っていた。1939年(昭和14年)、世界情勢悪化のため帰国する婦人宣教師から、花子は1冊の原書を贈られた・・・。
「赤毛のアン」誕生秘話と、訳者である村岡花子の生涯を感動的に描いた作品。

花子は父の自慢の娘だった。父は何とか花子の才能を伸ばしてやりたいと思い奔走する。父の努力のかいがあって花子は東洋英和女学院に編入することができた。花子の英語力は群を抜いていた。卒業後は英語教師になったが、書くことはあきらめず自分の進むべき道を模索し続けていた。そして「アン・オブ・グリン・ゲイブルス」との運命的な出会いが!
お嬢様学校と言われた女学校だったが、花子は決してお嬢様ではない。家は貧しく、まともに教育を受けられたのは8人きょうだいの中で花子ひとりだ。しかも、次女と三女以外の子どもたちは、養子に出されるなどして親元から離されている。
進むべき道を自らの力で切り開いていった花子。その意志の強さは並大抵ではない。驚くばかりだ。戦争中に英語と関わるなんて見つかったら厳罰ものだが、花子はひそかに「アン」の翻訳を続けた。また、空襲警報が鳴ってもひるむことはなかった。そして戦後、ついに「アン」は日の目を見る!その描写は感動的だった。花子は書くことでたくさんの人たちに感動を与えた。その功績は計り知れないほど大きい。「赤毛のアン」は、これからも多くの人に読み継がれていくと思う。それと一緒に訳者の村岡花子の生涯を描いたこの作品も読み継がれていってほしいと思う。貴重な写真も収められていて、読みごたえのある作品だ。多くの人に是非読んでもらいたい。
余談ですが・・・。
この作品に登場する「赤毛のアン」出版の立役者でタイトルの名付け親の小池喜孝氏とは、過去に2度ほど会ったことがある。その時のことを日記に書いたので、よかったらそちらの方もぜひ♪<(_ _)> → 「赤毛のアン」誕生の立役者小池喜孝さんとのささやかな接点」

ゆこりん : 20:32 | 作者別・・む他